ローズデイ記念事業・・・被災地を訪問して

ローズデイ記念事業実行委員長 真鍋 芳美

平成26年3月7日(金)朝7時過ぎ、高松空港より東北に向けての旅が始まりました。あちらは寒い、雪降っているかも・・など警告してありましたので皆様 寒さ対策万全の服装です。順調に東京駅まで、ここで合流の方を含め15名の会員で仙台へ。仙台よりバスにて石巻へ、予定通り14時に石巻グランドホテルに着きました。仙台ゾンタクラブの岩井さん、中村さんがお迎え下さいました。2014-03-07 01仮設住宅へのお土産を積み込み 語り部の山田葉子さんも乗車、門脇、渡波へ向かいました。ただただ寒風の吹き抜ける荒涼とした広い野原です。ここに3年前は住宅・工場・市民病院などが建ち並んでいた と説明されて始めて ここが津波(6m位)に襲われた、またその後火災が発生して全ての物が失われた場所とわかりました。 ここの地域の道路、一ヶ所高い所があり かろうじてそこだけ水に浸からずに助かったとのこと。市民病院、水産加工工場 全て壊れ なにもありません。すぐ横の山の手にある高台の家は何事もなかったかのように建ち並んでいます。その差の大きさに複雑な気持ちでした。
2014-03-07 02山田さんが避難していた渡波小学校の横で説明を聞きました。 この校舎に慌てて避難してきた人が高い階まで上がり すぐ横を流されてゆく人を一生懸命助け、でも手の届かない方は助けようがなく とまさに地獄だったとのこと。 山田さんはこの地区で家を失い 今は仮設住宅暮らしです。避難所で一番困ったことはトイレ。水が使えず、大きな衣装箱にし(3日間)、それを先生、有志の方が捨てに行ってくれたそうです。 校庭は瓦礫の山。その中でも子供たちはそこで遊びます。山田家はご商売していて広い範囲に配達していたので、顔見知りが多く、避難所運営にかかわり、また日赤医療チームの手助けをしたそうです。ここはJICA関係者の手助けで炊き出しなどが始められました。こういう支援は外部の力があってはじめて組織だってできるとのことでした。この避難所(2000人避難)は同じ地域の人の集まりだったのでまとまりがあり、在宅の方にも物資を配ったそうです。 避難所から仮設に移りはじめたのが5,6月。10月中旬までこの学校の避難所はありました。被災者は、お互いに思いやり あなたの方がより辛いのだから と慰めあうとのことでした。
蛇田北部2号仮設団地の皆様にお土産をお渡ししました。 蛇田北部2号仮設団地で被災当時のお話しを伺いました。蛇田北部2号仮設団地前で

そこから 震災時、唯一機能した日赤病院を見ながら、母上の住んでいらっしゃる蛇田北部2号仮設団地に向かいました。25世帯の小さな仮設です。住民の方が迎えてくれ、お茶、お菓子でもてなしてくれました。ここの会長さんは 津波に襲われ 雪のちらつく気候の中、一度は胸まで水につかった冷えた身体で、屋根から屋根を伝い逃げられたそうです。私がお話した女性の方は、流された家の跡 みにいけない、みたくないとのこと。1年に一度 3・11だけ行きますと話してくれました。仮設住宅の中を見せていただきましたが 2~3人で4,5畳のお部屋が二つ、狭いうえに 当初はガラスも薄く、風囲いもなく お風呂も段差あり。ペアーガラス、畳の敷きこみ、風除けなど住んだ後からの追加工事だったそうです。
この仮設から公営住宅に移れるのもまだまだ遠いようです。それまでは広い家に住んでいたので、プライドが傷つき、こういう暮らしが長くなり先が見えないと心が折れてきますとのことでした。
皆様にお土産(さぬきうどん、和三盆など)をお渡しました。
いしのま☆キッチンへ ここで驚きが待っていました。 この女性就労の場所を立ち上げた鹿島さん 高松出身 高松高校卒 真鍋洋子さんの息子さんと同級。バイタリティー溢れるすごい女性でした。

ぐるぐる応援団代表 鹿島さん(左)と語り部 山田さん(右) 「いしのま★キッチン」で
市役所の1階ロビーにフリースペースを設け、お料理の上手なお母さん達が料理し提供しています。この場所は学生さんたちの勉強の場でもあります。
夜 洋子さんが高松から駆けつけ 会員16名になりました。
ガイドさんのお話も心に響きます。3月8日(土)8時 ホテル出発。ガイドさんの話も泣けました。家族を大切にしてください とのこと、身につまされます。未だに行方不明のお子さんを探し続けている人、みつからない御主人の死亡届を出さない方、遺体が見つかっただけ良かった という方・・・まだまだ終っていません。
震災時、シーチキンの缶詰は穴を開けて紐をとおせば蝋燭になり、3時間持つそうです。靴はワークブーツみたいな頑丈な物でないと瓦礫の釘などを踏み抜いて怪我するとのこと。
津波は 川を伝って(3倍の速さになってくる)海から遠くまであっという間に到達するそうで、川の側は怖いとのこと。
震災前、震災後の写真をみながらの説明。平和な景色から悲惨な瓦礫の山へ。今は瓦礫も片付き、ただただ土を積み上げていたり、草っ原だったり。ものすごい広さの喪失です。
9時前に南三陸ホテル観洋に到着。ここにお泊りだった岩井さん、中村さんと合流。
南三陸ホテル観洋 女将 阿部さんここの女将さんのお話を伺いました。この方も肝の据わった 気配りのできる素敵な女性でした。素晴らしい景観の海を見渡せる立派な温泉宿ですが、2階まで津波に襲われたそうです。岩盤の上に建っていたので地震の被害はなく、ここを一時的な避難所として近隣の方に提供し(多い時で600人)、8月まで皆様ここで暮らされたとのこと。電気の回復に2ヶ月、水が出るようになるまで4ヶ月かかったそうです。一番困ったのはやはり水が出なかったことで、 給水車(配水最大1日80トン 必要水量は300トン)の水を節約、節約して使ったそうです。ここで寺子屋などを始め、いまでも学習支援、お風呂サービスを続けておられます。非常時は現場の判断が重要で、外に出ていた従業員も自分の判断で行動し無事だったそうです。宿泊者、従業員をかかえ、責任者の重大さを感じ、平時の心がけの大切さを思いましたとのこと。
「津波てんでんこ」という言葉がありますが、これは皆バラバラでも自分の責任で逃げることだそうで、大切な教えです。
女将さんの「1000年に一度の災難は 1000年に一度のまなびの機会です」との言葉が印象的でした。
頑張ってお店を復興しても、お客さんがこないとの声を聞き、急遽「南三陸 てん店マップ 2013」を作りと、本当に企画・実行力のある方です。
南三陸ホテル観洋 女将 阿部さん(中央)と三陸新報社編集長 小野寺さん(右)ホテルまで来てくださった三陸新報(気仙沼)の編集長 小野寺さんがバスに同乗。南三陸、大谷海岸、気仙沼などを説明しながらご案内下さいました。三陸新報は、あの震災の中で、一日も休まず新聞を発行したそうで(最初はA4版1枚のものを300部)、小さなパソコンを使い、車のバッテリーから電源をとって印刷しと、その情熱、工夫には情報を届ける人の魂を感じました。小野寺さんは、御自宅も流され、ご家族も辛い経験をされて、本当は思い出したくないが、沢山の方から支援を受けたので 恩返しのつもりで案内しているとのこと。自宅跡の横を通りましたが、海からすぐの、何もない草が生えた空き地でした。残ったローンだけ払っているそうです。辛いことでしょうと言葉もありませんでした。今、このあたり一帯は、かさ上げ工事中。ここまでという高さの印 2階くらいでしたでしょうか?それを見ていると、この膨大な工事が終り、ここが住宅地として完成するのはいったい何時になるのだろうと思えます。
海から来ると思っていた津波が地形によって後ろから襲い掛かったという場所を通りましたが、 これでは予測もつかないと思えます。本当に怖いし逃げようもないような感じでした。
気仙沼は魚の水揚げが多い漁港。かつお、さんま、きはだまぐろなどが水揚げされます。さめの漁獲高は日本一。関係者は必死で港の再開を図ったそうですが、まだ水揚げは震災前の7割程度しか回復していないとのことでした。
この地域は、水産加工工場も非常に沢山あったが、再開できていないところが多いし、再開しても販路がなかなか回復できないそうです。
新富すしで昼食。ここの板前さんはこれまで仲間4人で組んで 流され寿司(イベントで握ってまわる)をしながら やっとお店をこの1月末に再開。さめの心臓が突き出しでした。お寿司はとても美味しかった!! ここで、岩井さん、中村さん、小野寺さんとお別れ。
「気仙沼新富寿し」大将 鈴木さんと
雪のちらつく中を一路 一ノ関へ。途中の道の駅で買い物しながら 余裕で到着。14時48分のやまびこで東京へ。
2日間、覚悟していたよりは寒くなく過ごせました。 皆様、 無事 東京へ、高松へ。
本当にお疲れ様でした。
被災地を訪問して思ったこと それは「忘れてはいけない。ここがまだ復興できていないこと、沢山の方々がつらい環境の中で必死に生きていること を想い、自分でできることを考えて実行しなければ」でした。これからこの見聞をどう生かすか 重い課題です。